2010年03月

2010年03月20日

緒方正実さんのお話を聞く

相思社の集会棟
患者さん方の仏前で、お線香をあげ
緒方正実さんのお話を聴いた


50歳で(水俣病)認定を受けた

真実は被害者ひとりひとりが語らなければ伝わらない
話すことが特別。知られないようにしている人がほとんど。

病気を耐える力、偏見差別から耐える力

祖父は、発症3ヶ月で亡くなった(急性劇症型)
父親も亡くなった 
まだ水俣病がうつる(病気かどうか)わからなかった頃
父の魚は売れなくなった
正実さんは長男
正実さんの妹は胎児性水俣病

正実さんの子どもの頃の毛髪水銀値は200ppmをこえていた
(通常の100倍)
しかしそのことを知るのは25年後のこととなる
(検査した側が知らせなかったため)


補償を受けても補償を上回る苦しみを背負う
それは
"水俣病と言われること"
まるで犯罪者と思われるような意識感


「魚は食べていない」
苦しみから逃れるための嘘

"水俣病から逃げたい"
それは、祖父や妹を、
自分自身が水俣病を差別している苦しさ


30代。自分から水俣病とは言い出せなくなった

平成8年 政府から出された最終和解案
(補償金は260万円)

そんな想いを抱えて、こえて
(水俣病認定)申請をしたのに
水俣病ではないとの通知

自分自身を否定された気持ち

目で見て、耳で聞いて、心で感じてきた
水俣病を
関係ないといわれる苦しみ
くやしさ、怒り


平成9年 県の棄却処分に対し、行政不服審査を請求
水俣病は終わったとされる頃

以後12年間 棄却、異議申し立てを繰り返す

それは
自分の存在をきちんと証明するために

結果より言ってゆくことが重要

チッソ 行政 国 被害者
それぞれが正直にいたならば、拡大することはなかった
もっと(水俣病事件は)早く解決がなされていたのではないか


そこに気がつかなきゃならん
それを言わなきゃならん

自分が正直にならないと、相手も正直にはならない

行政として生きる前に、人として生きてほしい

法律の前に、命が大切
法律は人を苦しめるものであってはならない


そうして 12年
県知事が緒方さんに謝罪をした
患者認定がされる


相手を許すこと
自分のなかで、もやいなおす努力

人間は人間として生きなければならない

水俣病で気づいたこと
(それは自分にとって)貴重な出来事だと転じる生き方がしたい


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そうして 今
緒方さんは私たちにこうしてメッセージをくれる

言い尽くせないほどの
苦しみや悲しさを越えて

ゆっくりと確かな口調で
正面から向き合ってお話をしてくれる
その想いに

なぜだろう
こんなにあたたかな気持ちになるのは

苦しくて悲しくて
大変な想いをしてきたのは緒方さんなのに
なぜか、緒方さんが
私の背中を優しく押してくれるような


そしてやっぱり
その想いと同時に
緒方さんがチッソや国から受けてきた
その命に、生にかかわるものは
どうしたって不当だ

チッソも国も 
もやいなおしと思う方が
被害者からであることが悲しい


緒方さんは人として
とてもとてもすごいと思う
が、
そんな想いをさせるに至った
水俣病という
チッソが、人間が、起こしたことが
なんて罪深いのだろうと
思わずにはいられない










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水俣病センター相思社 〜歴史をひも解き、問題を捉えるということ〜


水俣病センター相思社の
水俣病歴史考証館を見学


水俣病センター相思社は、1974年に設立された
水俣病患者および関係者の生活全般の問題について
相談、解決にあずかるとともに、
水俣病に関する調査研究ならびに普及啓発を行うことを目的とした財団法人

相思社は、
(「相思」は、互いに思い合うの意)
水俣病の患者さんと、支援する人たちによって創られた

水俣病についての施設見学はこの旅で2カ所

この水俣病歴史考証館と
市立水俣病資料館(市がつくった資料館)。

この2つの施設が
水俣病をどう表現、展示しているのか見比べるということも意識してみたらと
実川さんが言っていた
(それは後日談とします)

[水俣病歴史考証館]
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水俣病歴史考証館の展示は、水俣展の原点。

水俣病事件の問題を通して、
それをみた私たちがどう生きるのかを問いかける


舟の展示や、道具の数々
海とともに生きてきた人たちの暮らしの豊富な展示。

水俣病の原因を知るためのネコ実験に使われた小屋の展示は
強烈だった

[猫小屋]
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「猫400号」

新日窒附属病院の細川一院長が、
工場の排水を猫に投与し水俣病発症を確認した実験。
猫400号の発症により、工場責任者に報告がされた

排水を投与された多くの猫たちを思うと
いたたまれない


最後の展示には
「もやい直し」の意味が書かれていた

「もやう」とは
船と船をつなぎ合わせること。

心のきずなをもう一度つなぎあわせるために。

硬直した対立の構造から次なる一歩をどう踏み出すのか

水俣の「もやい直し」という心の様は
世界の様々な問題にも通じ、
これから形作られるべき姿として在ると
展示は結ばれている


 



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魚市場見学 〜水俣のおさかな〜


水俣への旅、二日目。

丸島漁港、魚市場見学

丸島は
チッソ工場の裏門に面した場所

水俣、不知火海は
穏やかで、豊かな海
魚が卵を産む産卵場の海
いろんな種類のお魚がいる

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タコ、イカ、なまこ、ハマチ、タチウオ、タイ...

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丸島漁港の魚市場は
お魚屋さんが直接競りをする

1950年代が全盛で
人が少なく、漁獲量も減ったという

水俣病発症のあとは
様々な被害を受けた漁業

水俣の多くの人は海とともに生き、
魚とともに生きてきた

誰より海を知り
海への感謝も忘れずに生きていた人々を襲った水俣病

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1974年
水銀汚染魚の拡散防止のために
全長4400mの大型仕切網を設置し、汚染魚の捕獲が行われた。

1997年に安全宣言が出され、仕切網が撤去され
漁業も再開された。

今では、問題はない


水俣湾の水銀汚染の対策の色々には、
ほんとうに大丈夫?
と私も思うところもあるけれど


この旅のなかでも
水俣の魚をおいしくいただいた。

海とともに生きてきた人たちを思う魚市場でした。

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後日、水光社(水俣にある生協。水俣きってのスーパー)の
(チッソの従業員を対象とした消費組合として創立された生協)
お魚コーナーをのぞく

水光社だけではないと思うけれど
地元産(水俣産)であろう魚は、
「熊本産」と表示されていた
水俣産としない事情が未だあることに
その深みをまた感じるのでした





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2010年03月19日

百間排水口 〜水俣病の原点の地〜


チッソ水俣工場を取り囲むように
水路がつくられている

水路には、カモさんが泳ぎ
工場の縁に植えられた桜の花が咲いていた

水路を沿いを
水俣病原点の地、「百間排水口」まで歩く

工場からの水俣病発症原因であるメチル水銀を含む排水は
ここから流され、水俣湾は汚染された

それは、水俣病公式確認(1956年)
(それ以前から発症する人は出ている)後の、
1968年まで流され続けた

(1932年から1968年までの36年間!)

(百間口での排水は、1958年まで。
排水口の場所を変更して1968年まで排水。
そのことで水俣病被害は拡大した)

[百間排水口]
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当時、木製の船底には貝が付着して落とすのには一苦労。
だが、百間口に舟を置いておけば、
貝はしぜんに落ちた(死んだ)のだという

[現在、排水口のコンクリートには貝が付着している]
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百間排水口付近に堆積した水銀を含むヘドロの厚さは4m。
水俣湾に排出された水銀量は約70〜150トン。
(百間排水口に設置してある看板の記述より)

当時の百間排水口の水銀濃度は、4000ppm

水俣病の発生値は25mg(50ppm)とされる(環境省基準)


不知火海へ流れたメチル水銀は27t
耳かき半分ほどの量で人と死に至らしめるその毒は、
一億国民を二回殺しても余ある
(水俣展資料より)

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百間排水口水路は大規模な水銀ヘドロ埋め立て工事がされ
竹林園となっている

[水路脇の竹林園]
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竹林園は
シートを張り、
水俣湾の仕切り網(汚染された魚を捕獲するため)内の
焼いた魚をドラム缶に入れて埋め立てた地。

竹は、根を浅く張るため
竹林園となった
(シートを張って埋め立ててあるため)

なお、この埋め立ての耐久年数は50年とされ、
既に地盤が沈下しているところもあり、
今後が問題となっている

竹林園に植えられた様々な木は実をつけ、
クマゼミの抜け殻や、カマキリの卵塊...
多くの生きものたちが生きている
自然は本当にけなげなものだと愛おしくなる

一億国民を二回殺しても余ある毒。
魚や鳥や、多くの生きものはそれ以上に殺されている。

一度埋め立て
それをまた壊して、埋め立て工事を今後するのかと思うと
生きもの、命をもてあそぶな、といいたくなる
(なんで、そんな安易な工事をしてしまったのかということ)


人間は、自然、命に対して
とんでもないことをした
そう思わずにはいられない

水俣病原点の地、百間排水口は
象徴的な場所だった。


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[百間排水口にある川本さんが置かれたお地蔵様の隣にある石碑]




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チッソ水俣工場見学 〜私のなかのチッソ〜


チッソ水俣工場
水俣駅下車1分、正面に位置する

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[写真を撮るのはなんだかはばかれたが、工場の方の了承を受け撮る]
[工場の方もそのことには慣れているようだった]


水俣への旅、初日。
いちばん最初の訪問先は「チッソ水俣工場」

住所は、野口町1-1
「野口」は、創業者の野口遵(したがう、じゅん)の名前から。
チッソと水俣の関係の大きさを改めて感じる

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[チッソ工場内にある創業者 野口遵の銅像]
[チッソ内の写真撮影はここまで]


工場内には、見学者のための展示室がある
チッソが生み出した製品の数々
私たちの暮らしのなかにいかに役に立っているのかを
クリーンなイメージで展示されている

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チッソは、旭化成、積水化学などの母体会社であり
戦後の経済成長を支えた企業である。

なぜ、東京から離れた水俣の地に
この工場ができたのか

山があり、水が豊かにあり
山に発電所を作ることで
その電力で工場を操業する
水俣は発展のために望んでチッソを迎え入れた

東京ドーム12個分の敷地
水俣の人口27000人のうち工場で働く人は500人
関わる人は2000〜3000人になるという
水俣にとって唯一の一大産業であることはいうまでもない


チッソが生み出すもの
現在では液晶、シリコン、機能性肥料
(液晶は世界シェア49%)
あらゆるものの中間材料としての役割を担っている


"次世代に期待される私たちの技術"
"地球環境に配慮した製品づくり"
"くらしの中にある私たちの製品"

そんな言葉がおどる

みせていただいたVTRにも

"地域に貢献することもチッソの責務です"
"地域とともに栄えていくようにつとめてまいります"

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案内を担当する方は、とても快活明朗な印象のある方で、
私たちの質問に対しても
チッソ側の方として言えるぎりぎりのところであろう
お話もしてくれた
お話を聴く機会を頂けてよかったと素直に思う。

その方もまた父がチッソで働き、
自分もチッソに就職することには迷いはなかったという

二度と同じ失敗をしない
水俣にきてくれたことがうれしいこと、
チッソの広報担当としてできることはしたい、と
おっしゃっていた。

展示してあった数々の製品は
全国のスーパーに並ぶごくごくふつうの商品
CMでもよく流れている商品


私は、なるべくナチュラルなものを選び暮らそうとしているので
商品として使用しているものはほとんどなかったが、
コンタクトにはシリコンが使用されていたりと
絶対に暮らしのなかにチッソの生み出した製品はある

"次世代に期待される私たちの技術"
"地球環境に配慮した製品づくり"

・・・

発展を望まない企業はない
だけれど、それが人が望むべきものなのか

発展(便利で豊かな暮らし)=しあわせ
であるのかはちがうと私は思う

便利だから豊かなのか、それはきちんと考えるべきだ


展示室の私たちの暮らしに貢献しているという
クリーンなイメージのなかに、
チッソの沿革のなかに、
水俣病の記述はどこにもなく
加害企業として何をしたのかの事実はない

チッソ分社化の動きがすすむなか
この企業の体質のなにかを感じる


水俣フォーラムの実川さん(今回の旅の案内人)が
チッソは本当の意味で
よみがえる、生まれ変わるべきだと言っていた


発展=人の豊かさ、しあわせではない
真の意味で、チッソが生まれ変わるには
未だ解決されていないことがある
決定的に足りないのは
人としての真摯さではないのはないのだろうか
...企業もこの国も


そして、自分を含め、私たちひとりひとりが
自分の暮らしの在り方を改めて問うべきだと思う
小さな一歩だけど、それを弛まずすすめてゆくことが
その
発展=人の豊かさ、しあわせではない という
証となるのではないかと思う

私は私の暮らしのなかのチッソを認めると同時に、
それ(モノ)に頼りすぎない暮らし方を
なんとかしたいと思っている。
矛盾しているかもしれないけれど
依存したくないという思いがした。

そして、その解決の先には
人と人との繋がりや、自然とのつながりが
あるのではないのかと感じている




sorayuki_1 at 15:55|Permalink minamata